『(500)日のサマー』


(500)日のサマー』をみました。

なんと夏が500日続きました!
という話ではなくて、主人公の男の子が、「サマー」という女の子と過ごした500日を反芻する物語であった。とてもよかったです。
サマーをズーイー・デシャネルさんが演じていて、たいへんキュート。 これがスカーレット・ヨハンソンなら5日で足蹴にされるだろうし、ペネロペ・クルスであれば50日で身がもたなくなりそうだし、レネー・ゼルヴィガーと5年というのもダラダラしてしまいそうであって、500日というのはほどよい塩梅と言えるのではないか。

主人公の男の子は、ジョイ・ディヴィジョンのTシャツを着て、カラオケで空気を読まずにピクシーズを唄い、デートでは映画ばかりみている。インディーズを聞いて育ったゆえかどこか理屈っぽいところもある。 なんだか他人事ではないような親近感をもった。お前はオレか。 偶然にも、わたしもジョイ・ディヴィジョンのTシャツを着て映画を見にきていた。

物語は、時間軸がバラバラに構成されていて、彼女との幸せな日々や、彼女が自分に興味をなくしていく日々も、交互に語られる。 彼女のつれない態度に、ドーン!と落ち込んでしまった日のあとに、幸福な日々の2人の笑顔をみると、なんだか胸が掻きむしられるようになってしまう。 なかでも主人公のこうであってほしいと思う「妄想」と「現実」が、2分割画面で同時に進行する演出は、切なさが際立っていた。あぁ現実つれえ!

2人が仲良くなるきっかけは音楽だった。 ヘッドフォンでスミスの「ゼア・イズ・ア・ライト」を聴いていたら、サマーから「ねえ、スミスすきなの?あたしもよ」と声をかけられる。 そんな都合のいい話、ねぇよ!とツッコミをいれながらも、心の奥ではわたしまで浮き足だってしまう。 聞いている音楽が一緒。それだけで通じ合えた気がしてしまう。 しかし好きなアーティストが一緒というだけでは本当はダメなのだ。 その音楽をなぜ好きかは人によってスタンスが違い、そのスタンスこそがお互いの気持ちのすれ違いを生んでしまう。

人はおおむねその時の相手のリアクションに圧倒され、嬉しくなったり、狼狽したりしながらその瞬間を生きている。 しかし過去を反芻することは、過去に縛られているようでもあるけれども、反芻することで、その時にはわからなかったことが新たに見えてくることも、またあるのだと感じることができた。そして、それは自分のスタンスをもまた新しくしていく。はんすう大事。

音楽ネタが多いのは楽しかった。 部屋にジザメリのポスターを貼る主人公は、カラオケでピクシーズやクラッシュを唄う(いけてない同僚はPOISONのバラードを熱唱する!)。そのくせ、舞い上がった時にはホール&オーツを頭の中で鳴り響かせるし、気分屋の彼女を思う時には、パトリック・スウェイジの「シーズ・ライク・ア・ウインド」という微妙な曲がかかってニヤニヤした。卒業アルバムのコメントをベル&セバスチャンの曲から引用するサマーは、スミスの一節をくちずさんだんだり、2人の関係をシドとナンシーになぞらえたりする。 劇中では音楽がかかりまくっていて、スミスはもとより、ダヴズなんかのイギリスのミュージシャンの曲もかかる。これは本当にアメリカ映画なのか?とおもった。またロスが舞台なのだけど、古い建築群を見せるアングルの切り方もどこかイギリスのような風景にみえてなんだか新鮮でした。